アンソロジー『THE FUTURE IS JAPANESE』

THE FUTURE IS JAPANESE (Jコレクション)

THE FUTURE IS JAPANESE (Jコレクション)

 ありったけの想像力を注ぎ込んで、世界を書き直してみる。壁という壁を取り払い、限界という限界に気づかぬふりをして、最大限の自由をもって想像をする。あまりにもエキサイティングな行為だ。
 それでも夢想は永遠に続くものではない。書きつけられた言葉である以上、それは同時に限界を意味するひとつの終わりにもならなくてはならない。それでも先を目指すならば、もはや言葉の先に行くしかない。
 未来は無限にある。無限を、描き出すことはできない。

 小川一水『天冥の標6』1〜2

天冥の標6 宿怨 PART 2 (ハヤカワ文庫JA)

天冥の標6 宿怨 PART 2 (ハヤカワ文庫JA)

 道筋が見えてくれば想像は広がる。広がった想像の裏をかき上をいくのは至難の業になる。定められた道筋を提示するだけではエンターテイメントにはならない。
 不安はわずかにあるけれども、それでもこの作者ならば、最後まで楽しませてくれると思いたい。

 大野更紗『困ってるひと』

([お]9-1)困ってるひと (ポプラ文庫)

([お]9-1)困ってるひと (ポプラ文庫)

 情報とユーモアがあればエッセイは面白い。そこに一種の迫力とドラマが添えられていれば、もう申し分はない。

 多和田葉子『雪の練習生』

雪の練習生

雪の練習生

 想像力は説得力に直結する。あまりにも豊かな想像力はすでに質量を備え、そこに現実の芽生えを予感させる。皮肉ではなく、そうあればいいと思う視点の在りかが、意識しないうちのレンズとなって照らし出す、ある意味では残酷な輪郭もあるだろう。
 その想像力の果てに何があり得るのか。その世界はいったいの何の鏡像となっているのか。踏みだされたものは、あまりにも過去にとらわれたものでありすぎて、たしかな物語が息づいているにも関わらず、退屈さを退ける力はない。

 西尾維新『悲鳴伝』

悲鳴伝 (講談社ノベルス)

悲鳴伝 (講談社ノベルス)

 感情のない物語に、熱はどうしても宿らない。あまりにもドラマチックな仕立てだからこその無感動なのか、無感動だからこそのゴテゴテした装飾なのか。試みはエンターテイメントとして、いずれにしても失敗しているとは思うけれども、前者であるならば意図は見える。

 佐々木中『晰子の君の諸問題』

晰子の君の諸問題

晰子の君の諸問題

 あきこ、と読ませる。「明るい」と重ねると明晰という熟語になる。わざとらしいくらいに暗示的な名前に、ぐっと構えるものはある。その構えが、冒頭で必要になる。続くものか、こんなものが、と文字を追っていくと、不意に開けたようになった。晰子が登場している。
 読めないものは読めない、それでも読むのならば、と作者の声が聞こえる。乱暴な小説で、小説としてこれが上等なものだとはどうしても思えないが、読んでしまえば考えることはある。考えることがあるならば、本としては上等なものに仕上がっているというべきか。

 浅田次郎『赤猫異聞』

赤猫異聞

赤猫異聞

 情報があり、ドラマがあり、謎がある。それぞれの出来がほどほどであれば、エンターテイメントとしては上質なものとしてまとめられる。作家にとって、こういう作品があってもいいだろう。読者にとっても実に過不足のない小説として楽しめる。
 その一方で、これまでの誤解をただす情報ではなく、思わず涙してしまうほどに練り込まれたドラマではなく、先が気になってどうしても続きを読まねばならぬというほどの謎でもない。