芥川賞雑感

 作品の感想は、後日書く。適当に、周辺についておもったことを書く。
 黒井千次円城塔の『道化師の蝶』を評して、「2回読んで、2回とも眠くなった」と言った。石原慎太郎は今回の両名の受賞に憤慨して選考委員を降りた。黒井を固陋、石原を頑迷というのはたやすい。実際、そのようにいうひとを何人か見た。
 やや話を飛ばす。
 円城の小説は面白い。ただ、ひとには薦めない。あれは小説が好きなひとが読む小説だし、マジョリティである「文学なんてふだん読まないよ」というひとにとっては「眠くなる」だろう。だから芥川賞をあげるべきではないなんてことはまったく言わないし、受賞は喜ばしいことだと個人的には思っている。ただ、なにかひっかかりは残る。
 いろんな誤謬を飲み込んで乱暴に言ってしまえば、『道化師の蝶』は「インテリの内輪受け」小説だ。文化的価値とか文学的意義とか置いておいて、これはもう断定してもいい。もしも「いや、あれはひろく世間に読まれるべきだし、読んだらきっと面白いと思う人が続出するはずだ」とか言うひとがいたら、それはただのアホなので無視しよう。そうはならない。ならなかった。いままで、ずっと。
 いつも考えている。文学って狭い世界の話だと。狭い世界で毀誉褒貶、世の中の多くの人の生活から隔たったところで一部の特権的な人間たちが侃々諤々、見物人である自分を含めてよくも飽きないものだと思う。はたから見ればアホみたいな話だ。何を大上段から偉そうにものを言っているんだ、この無名どもが、ってなもんだ。文壇と世間の溝は埋めがたく、歩み寄る気配はまったくない。
 それは芸術の態度だ。
 芸術はそれでいい。一部のわかるひとだけがわかり、そこで芸術を取り巻く経済はまわり、世はなべてこともなし。文化は理解者によって丁重に保護され、連綿と続く。美術、音楽、建築、演劇。そこに文学は並ぶか。
 あやしいものだ。
 そも、文学は芸術たりえるか。
 無理だろう。
 べつに文学の文化的な意味を疑うわけではない。文学が好きでいるのは、そういうところに自分の人生にとっての価値を見出しているからでもある。むしろ積極的に認めていきたい。ただ、文学は現在において致命的に芸術の諸条件と折り合いが悪い。なにしろ文学は出版物だ。
 そもそも出版という技術と芸術は折り合いが悪い。産業革命にさかのぼって考えれば、出版という技術は宿命的に「ひろめる」ために生まれた。対して芸術の最大の価値は「唯一」である。絵画・彫刻・建築については言うに及ばない。音楽・演劇だって、複製・再演はいくらでも可能だけど、最大の価値は「その場にある、ただ一度の演奏・演劇」にある。だから公演が売れる。そこでバランスが取れて、周辺を取り巻く経済は成立する。
 文学だけが、「最初のひとつ」「刹那のひとつ」に価値を認めない。出版物は原則どこでも手に入り、誰にでも供給され、いつだって読める。直筆原稿に意味はない。なぜならそれは決定的に不変な言葉だからだ。かろうじて「時代性」というくくりは存在するけれども、そんなものは価値を生まない。
 文学という"文化"を取り巻く出版という"経済"が、「ひとつ」を重んじるようにできていない。無限に生産され無限に消費されるのが出版という形態であり、そこに適した商売の形態として出版業界は成り立っている。一枚何百万で売れる絵画とは話が違う。だから「文化を守るために、出版社は赤字でも本を出すべきだ」なんて鼻で笑うしかないことを真顔でいうひとが出てくる。災害ボランティアを強制する醜悪さとどこも変わらないのに。
 だからこのままでは遠からず文学は死ぬ。文化として不要になって死ぬのではなく、まわらない経済に圧迫されて死ぬ。文学を取り巻く人々の態度と、出版を取り巻く経済のシステムがかみ合っていない。そういう齟齬が、この時代にいたって限界を迎えた。それだけの話だ。
 文学という文化を守るためにやるべきことはすでに明確でありすぎるのに、誰もそれを言わない。みんなが「おれはすごいから守られて当然」みたいな顔をしている。芸術家の顔をしている。出版という経済はそこに価値を見出してくれないのに、まだ幻想を振りかざしている。文学を取り巻くこの息苦しさの根源は、そういうところにある。
 そんなことを思った。